top of page

【近藤太郎の滞在記録4】文・近藤太郎

オープンスタジオ1週目が開催されました。土曜日の朝からものすごい雨でしたが心は晴れやかでした。 藤屋の中では岩熊力也研究室、近藤太郎アトリエ、改装したキッチンを開放し、またお昼時にはギャラリーへと改装が進む車庫でオープンランチを行いました。近所の方や岩熊さんが美味しい朴葉寿司やフレンチトーストなど他にもたくさん持ってきてくれて、風通しの良い外で食べるランチはとても素晴らしかったです。 商店や木祖村のみなさんと撮影した"木祖村ブルース"のMVも藤屋の玄関口で披露され小粋なメロディーが家の中から街道に流れていました。 町中では所々商店や家の窓に描いたウィンドウペインティングが現在9箇所。酒屋の山六では湯川酒造と木曽ペインティングスのコラボラベルの「木曽路」が13日に合わせ発売され(しかも純米大吟醸!)全てが祝いのムードでいっぱいの様に思えました。 土日合わせ50人以上の方が藤屋に見え、沢山お話ししました。 自作を前に「この穴はなんですか〜?」とか「これは蛇ですか??」とか「どういう風に絵を描いているんですか?!」とか僕は作品の話をして、たまに「このカワウソは怒ってるんじゃない」とか「こっちの穴からも覗けるよー!!」「この写真もバスの中じゃない...」みたいな感じで僕が全然知らなかった事、忘れていた事も教えてもらい、なんだかとても楽しかったです。 梅雨の雨の中、藤屋がオアシスの様に感じた2日間でした。また来る週末もたくさん人が来て輝くような時間をみんなと過ごせればと思います! それではまた〜


閲覧数:64回0件のコメント

最新記事

すべて表示

別の道

かつて作品のリサーチのために自分の生まれ育った東京渋谷の歴史について調べる中で、ジャニー喜多川が戦後の占領期にGHQとして来日したことを知ったのだった。彼は美少年に声をかけて野球チームを作ることから始めた。占領が明けた後も彼は日本に残り占領を続けたのだ。 たった7年間の占領期だが、70年以上経った今もその呪縛から逃れられずにいることに戦慄する。それは占領軍が植え付けた自虐史観の洗脳が解けないままの

「祭」の終わりと「わかりやすさ」の正体

ファッションショーまで2週間、展覧会まで3週間となった。 これまで6年間毎年開催していた木曽ペインティングスの芸術祭だが、今年は開催しない。アーティストコレクティブ・GR19企画の展覧会の開催となる。 その理由はいくつかある。 木曽に移住して芸術祭を始めるにあたり心がけていたのは、アートのレベルを下げずにいかに地域の中に根を下ろすかだった。 地方において「都会で相手にされなくても地方の人間ならだま

bottom of page